歴史・由来
四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。
寺宝に「マリア観音像」(非公開)がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。土佐沖で難破したイスパニア船の船長が、長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像とは知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝えられ、徳川幕府のキリスト教禁令にも難を逃れている。寺にはほかに鎌倉時代の「十二天屏風」、室町時代の「山越阿弥陀三尊像」(紙本著色)などが保存されている。(四国八十八ヶ所霊場会より)
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