豊前国中津12万石から筑前国福岡52万石に移封された初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城した城で、舞鶴城ともいう。平山城で、天守閣はなく大中小の各天守台と47の櫓があったという。本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸、三の丸で構成された内城部分で413900㎡、城下の武家屋敷まで含めば2460000㎡もの広大な規模を持つ城郭である。
現在、内城を中心とした48万㎡が国指定史跡である。また、多聞櫓(重要文化財)、伝潮見櫓(県指定建造物)、下の橋大手門(同左)、祈念櫓(同左)、母里太兵衛邸長屋門(同左)、名島門(市指定建造物)が保存され、大天守台は展望台になっている。北側の堀は一部埋め立てられていたが、地下鉄工事により調査され、その一部(堀外壁石垣)が保存公開されている。本丸から三の丸一帯が舞鶴公園として、市民の憩いの場となっている。また堀には県指定天然記念物のツクシオオガヤツリが自生する。城内には万葉歌碑があり、もとの平和台野球場付近では、昭和62年12月に鴻臚館(国指定史跡)が発見された。(福岡市の文化財より)
三の丸、松の木坂を登り二の丸跡へ。二の丸跡には梅園がありました。本丸表御門跡の石段
祈念櫓
本丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1860)3月に起工し、同年10月に竣工したものである。その後、大正7年(1918)市内にある黒田家の菩提寺の崇福寺が陸軍省から払下げをうけ、末寺である大正寺住職渡辺玄外老師によって、北九州市八幡東区東台良の同寺境内に移築され、観音堂として使用されていた。昭和58年(1983)、同寺より福岡城の旧位置に移築され、翌年9月竣工した。棟を北西から東北に通し、鯱が上げられ、丸瓦に黒田家の藤巴が刻まれる。壁は1、2階とも押縁縦板張りで、のちの改築。ただし、1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめている。1階には5畳半の茶室を付加している。(福岡市の文化財より)
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