歴史・由来
観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。
桓武天皇(在位781〜806)はじめ3代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職として45年間務めるなど、寺運は隆盛を誇った。だが、やはり明治新政府の神仏分離令により本地仏を移し、一境内に二霊場となった。本堂は、金堂とも呼ばれて室町時代の建築で国指定重要文化財。朱塗りの柱が色鮮やか。境内には宝物館があり、彫刻としては珍しい「仏涅槃像」(厨子入り、平安〜鎌倉時代)をはじめ、絵画では「琴弾宮絵縁起」(絹本著色、鎌倉時代)、「不動二童子像」(絹本著色、室町時代)のほか、前項で触れた本地仏像など国の重要文化財が数多く収蔵されている。(四国八十八ヶ所霊場会より)
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